2024年10月01日

咲かない彼岸花

 彼岸の頃には、よくしたもので田んぼの畔や周辺に彼岸花が咲きだす。
 特に田んぼの畔やお墓の周辺によく見かける。なぜかというと、彼岸花の球根には毒があり、田んぼを荒らすネズミやモグラ、虫などの被害を防ぐため。墓地で多くみられるのは、土葬の遺体をネズミやモグラから守るためだとされており昔の人の知恵はすごい。
 彼岸花の姿は、30〜50センチ程の花茎の先に、強く反り返った6枚の花びらを持った鮮やかな紅色の花が5〜7個つき、やや偏平な球状を形作っている。それぞれの花からは6枚の雄しべと1本の雌しべがまるで飾りのように上方に長く突き出している。
 彼岸花は、別名 曼殊沙華(まんじゅしゃか、あるいはまんじゅしゃげ)とも呼ばれ、サンスクリット語で天界に咲く花という意味らしい。おめでたいことが起こる兆しに赤い花が天から降ってくるという仏教の経典からきているそうだ。そんな真っ赤な彼岸花も、稲刈りを前にした田んぼのあぜ道ではどうすることもできず、草刈り機で一気に刈られてしまう。さみしい限りである。
 しかし、今年の秋は違う。毎年彼岸の時期には勝ち誇ったように咲いていたあの彼岸花が、ほとんど咲いていないのである。田んぼのあぜ道は緑一色である。あの真紅の彼岸花はどこに行ってしまったのだろう。
 彼岸花の花芽の形成は、地温が30度以下、気温は約20度位が適温らしい。今年の彼岸頃の気温はまだ高く、花芽の形成が遅れていたようだ。
 ところが彼岸すぎると急に気温が下がり、涼しい秋風が吹きだした。「暑さ寒さも彼岸まで」ということばがあるが、彼岸が過ぎてやっと花茎が伸びだした。その先には真っ赤な花弁が膨らんでいる。もうしばらくすると、田んぼの畔道やあたり一面、真っ赤な色に染まるだろう。おめでたいことが起こる兆しの赤い花。
 赤い花なら曼珠沙華
 阿蘭陀(おらんだ)屋敷に雨が降る〜
(作詞:梅木三郎『長崎物語』より引用)

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2024年09月01日

笑門来福 オフライン版 第34号

 笑門来福 オフライン版 第34号です。
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今日の勉強「二百十日」について

 「二百十日」とは、雑節の一つで、立春から数えて二百十日目をいい、毎年九月一日頃に当たります。この頃は台風によく見舞われる時期で、過去の経験から、農家によっては油断のならない「厄日」とされました。同様に「二百二十日」、旧暦八月一日の「八朔」を合わせて農家の三大厄日というそうです。
 台風の予測ができなかった時代、風を鎮める祭りを行って収穫の無事を祈りました。有名な祭りが、富山市八尾町で行われる風祭り、「越中八尾おわら風の盆」です。風を鎮める豊年祈願と盆踊りが融合し、親しまれてきたお祭りで三百年以上の歴史があるそうです。八尾の古い街並みに哀愁を帯びた胡弓の音色が響き、越中おわら節にのせて、編み笠を被った男女が踊り歩きます。

 九月一日は「防災の日」でもあります。「防災の日」は1923年(大正十二年)九月一日に発生した関東大震災にちなんで1960年(昭和三十五年)に制定されました。犠牲者の慰霊とともに、災害に備えて避難訓練や防災用品の点検などを促す日でもあります。
 今日をきっかけに、非常持ち出し袋の点検や家族との連絡方法、避難所、避難経路、家族との待ち合わせ場所など、ぜひ確認しておきましょう。
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三つ折りの人生

 先日、95歳の父に、若い頃の話を聞いた。耳が遠く物忘れも出てきているため、振り返るのに少々時間がかかった。

 父は、昭和3年生まれ。尋常高等小学校卒業後、大連の満州化学工業株式会社に就職。終戦後帰郷した父は家業を手伝い、数年後縁あって母と結婚、養子に入る。結婚後も婚家で農業をしていたが、数年後、市役所へ就職することができた。それから30年勤務し、平成元年三月60歳で退職。退職後は、地域活動に貢献しながら今日まで元気にしている。

 学校卒業した昭和十八年、大連にわたり満州化学工業株式会社へ就職。全国から働きに来ていたという。化学肥料の硫安を製造。白衣を着て実験もしていたと鮮明に覚えている。昭和二十年、大連で終戦を迎え、少しして佐世保港浦頭の地に引き上げてきたのは18歳の頃。
 その後、結婚し、昭和二十七年に長 兄が生まれた。戸籍をみると、養子縁組・婚姻の届は兄の出生届の2日前となっていた。23歳の若者が届け出のこと等知る由もなく、当時ではままあることかと納得する。この多感な青年時代だが、帰郷から結婚までの5年間のことはあまり覚えていないらしい。記憶から遠ざけているのだろうか。
 市役所入庁が昭和三十三年、30歳の頃。結婚してから7年程経過。この間、、母、姑、3人の子育てと農業に忙しかっただろうが、これもあまり記憶がない。母は、「おとうさんは、農業には向いてない。勤め人になれてよかったよ」と笑っている。確かに、大連の会社のことは今もよく覚えている。退職後は地区社協長、人権擁護委員等の任を果たし、自分らしく過ごしてきた気がする。

 父の人生を思うに、人生は折り返しというより三つ折りだと感じる。
最初の3分1は戦争に翻弄された日々。真ん中の30年は、本好きの父が本領発揮できた時代、そして今残りの人生を91歳の母とゆっくりと重ねている。

 いつまでも元気でいてください。
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2024年08月01日

笑門来福 オフライン版 第33号

 笑門来福 オフライン版 第33号です。
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