笑門来福 オフライン版 第36号です。
2024年11月01日
今日の勉強「支える人を支える募金」
十月一日から、令和六年度の「赤い羽根共同募金運動」が始まりました。すでに各地域からの戸別募金、法人募金、職域募金など、多くの募金をいただいており、誠に有難うございます。街頭募金へのご協力もありがとうございます。
昨今は、日本全国で豪雨災害や地震災害が多発しており、日本赤十字や被災地からの災害支援や義援金のお願いが続いております。いつ災害に合うかわからない不安、災害に合った方々が再度の災害に襲われる不安、よく「想定を超える災害」といわれますが、その想定が日々更新される世の中になっています。
私たちにできることは、万一に備える自己防衛対策と、支援を必要とする人たちに、「みんなで支えていくよ」と伝えることではないでしょうか。
赤い羽根共同募金は、ボランティア活動など、支える人を支援する募金です。
赤い羽根共同募金は、県の共同募金会に一度集約され、募金金額に応じた配分金を福祉事業に活用させていただいております。
引き続き、共同募金運動へのご支援、ご協力をよろしくお願いいたします。
昨今は、日本全国で豪雨災害や地震災害が多発しており、日本赤十字や被災地からの災害支援や義援金のお願いが続いております。いつ災害に合うかわからない不安、災害に合った方々が再度の災害に襲われる不安、よく「想定を超える災害」といわれますが、その想定が日々更新される世の中になっています。
私たちにできることは、万一に備える自己防衛対策と、支援を必要とする人たちに、「みんなで支えていくよ」と伝えることではないでしょうか。
赤い羽根共同募金は、ボランティア活動など、支える人を支援する募金です。
赤い羽根共同募金は、県の共同募金会に一度集約され、募金金額に応じた配分金を福祉事業に活用させていただいております。
引き続き、共同募金運動へのご支援、ご協力をよろしくお願いいたします。
長崎県共同募金会松浦市支会
令和5年度の募金額です。
3,359,912円
ありがとうございました。
3,359,912円
ありがとうございました。
「失対さん」に感謝
今年の夏はとにかく暑かった。そしてまだ暑い。暑さと寒さが共存して、これまでの春夏秋冬が崩れていっている。毎朝出勤する際、それなりの道幅があるにもかかわらず、道脇の草が生い茂り、ガードレールがあったかどうか、路側帯の白線があったかどうかも認識できなくなっている。センターラインによらないと車に枝がぶつかりそうだし、カーブでは危うく対向車とぶつかりそうになる毎日である。安全運転を!
そうした日々の中で「昔は、失対さんがきれいにしてくれていたな」とよく思い出す。「失対さん」とは、私が勝手に読んでいる言葉であり、失礼があったらお詫びします。かつて、道路の除草作業をしてくれる人たちがいました。私が出勤する時間には、もう現場に来られ、帰るときには見事に除草され、綺麗な片付けようでした。どこの事業者さんかと思いきや失業対策事業として雇われている方々だと教えてもらいました。しかし、いつ頃までだったろうか。失対さんを見かけなくなって久しい。ずっと昔のような気も。
少し、時代を振りかえると(間違っていたらすみません。)失対さんの始まりは、炭鉱閉山による離職者の緊急就労対策事業のようでした。本市の炭鉱の始まりは明治の代からで、「松浦市 炭坑史」によると、寛延二年(1749年)から昭和四十四年(1969年)までの220年の記録が記載されていました。
旧松浦市が誕生した昭和三十年。石炭産業は活況を呈し、昭和三十四年には人口四万四千八百人となった。しかし、一方で、時代は石炭から石油へ、昭和四十四年には十六あった全ての炭鉱が閉山した。閉山後は、街を離れる人も多く、多くの住民が職を失った。昭和三十四年には、国策による炭離救済緊急就労対策事業が始まった。この事業が「失対さん」だったのではないか。事業費の8割が国の補助であるこの事業は、当時、財政再建団体であった松浦市の支えとなったようである。苦しい時代だったのだろうか。炭鉱を中心に多くの人が生活をしてきた松浦市。石炭離職者対策は、平成十三年に廃止となっているようで、失対さんを見かけなくなったのはその頃だろうか。長い月日がたち、荒れ放題の道路を見るにつけ、あの頃の「失対さん」を思い出し、改めて感謝したいと思う日々です。
そうした日々の中で「昔は、失対さんがきれいにしてくれていたな」とよく思い出す。「失対さん」とは、私が勝手に読んでいる言葉であり、失礼があったらお詫びします。かつて、道路の除草作業をしてくれる人たちがいました。私が出勤する時間には、もう現場に来られ、帰るときには見事に除草され、綺麗な片付けようでした。どこの事業者さんかと思いきや失業対策事業として雇われている方々だと教えてもらいました。しかし、いつ頃までだったろうか。失対さんを見かけなくなって久しい。ずっと昔のような気も。
少し、時代を振りかえると(間違っていたらすみません。)失対さんの始まりは、炭鉱閉山による離職者の緊急就労対策事業のようでした。本市の炭鉱の始まりは明治の代からで、「松浦市 炭坑史」によると、寛延二年(1749年)から昭和四十四年(1969年)までの220年の記録が記載されていました。
旧松浦市が誕生した昭和三十年。石炭産業は活況を呈し、昭和三十四年には人口四万四千八百人となった。しかし、一方で、時代は石炭から石油へ、昭和四十四年には十六あった全ての炭鉱が閉山した。閉山後は、街を離れる人も多く、多くの住民が職を失った。昭和三十四年には、国策による炭離救済緊急就労対策事業が始まった。この事業が「失対さん」だったのではないか。事業費の8割が国の補助であるこの事業は、当時、財政再建団体であった松浦市の支えとなったようである。苦しい時代だったのだろうか。炭鉱を中心に多くの人が生活をしてきた松浦市。石炭離職者対策は、平成十三年に廃止となっているようで、失対さんを見かけなくなったのはその頃だろうか。長い月日がたち、荒れ放題の道路を見るにつけ、あの頃の「失対さん」を思い出し、改めて感謝したいと思う日々です。
2024年10月01日
今日の勉強「十月十日に込められた想い」
かつて、十月十日は、「体育の日」。1964年(昭和三十九年)日本で初めて開催された東京オリンピックを記念し、1966年に「スポーツに親しみ、健康な心身を培う日」として制定された国民の祝日で、東京オリンピック開会式のあった十月十日と定められました。
しかし、ゆとりある生活や余暇の充実、旅行需要の拡大等経済波及効果を狙って、2000年(平成十二年)にハッピーマンデー制度が適用され、この対象となったのが、成人の日、敬老の日、体育の日でした。体育の日は十月の第2月曜日になりました。その後「体育の日」は、2020年(令和二年)に、「スポーツの日」に名称変更になりました。ちなみに、かつて十月十日が体育の日に選ばれたのは、東京オリンピック開会式もそうですが、過去の歴史から秋の長雨が明け、晴天率が最も高い日だったそうです。
かつて十月十日を記念日にしていたあなた! 心配ご無用。
今は「赤ちゃんの日」になっています。株式会社赤ちゃん本舗によって2010年に日本記念日協会に認定された日本の記念日です。日付は、妊娠期間が十月十日(とつきとおか)と言われることにちなんで「赤ちゃんの健やかな成長を祈り、生まれてきてくれてありがとう」を伝える日とされたようです。
「十月十日(とつきとおか)」とは、十か月目の十日目という意味で、つまり満9月と10日ということです。人の妊娠期間は平均38週から40週間で、4週間を一か月とカウントするとこの頃になるようです。
「十月十日」は、いつの時代でも私たちの大切な日です。
しかし、ゆとりある生活や余暇の充実、旅行需要の拡大等経済波及効果を狙って、2000年(平成十二年)にハッピーマンデー制度が適用され、この対象となったのが、成人の日、敬老の日、体育の日でした。体育の日は十月の第2月曜日になりました。その後「体育の日」は、2020年(令和二年)に、「スポーツの日」に名称変更になりました。ちなみに、かつて十月十日が体育の日に選ばれたのは、東京オリンピック開会式もそうですが、過去の歴史から秋の長雨が明け、晴天率が最も高い日だったそうです。
かつて十月十日を記念日にしていたあなた! 心配ご無用。
今は「赤ちゃんの日」になっています。株式会社赤ちゃん本舗によって2010年に日本記念日協会に認定された日本の記念日です。日付は、妊娠期間が十月十日(とつきとおか)と言われることにちなんで「赤ちゃんの健やかな成長を祈り、生まれてきてくれてありがとう」を伝える日とされたようです。
「十月十日(とつきとおか)」とは、十か月目の十日目という意味で、つまり満9月と10日ということです。人の妊娠期間は平均38週から40週間で、4週間を一か月とカウントするとこの頃になるようです。
「十月十日」は、いつの時代でも私たちの大切な日です。