大正十二年生まれ、生きていれば百歳を迎える叔母が、昭和十八年十二月第一回女子挺身隊として、大村第二十一海軍航空隊に徴用された。叔母は、日記を書いていた。その日記から若き彼女らの想いをお伝えしたい。
紙面を広くとることをお許し願いたい。
昭和十八年十二月二十一日
御厨駅八時五分の列車に乗る。近所の方の見送りを受け愈々出発。同胞二十名の一行が列車に乗り込んだ。早岐駅で母の真心のお弁当を開く。おすし四丁のうち二丁を食べた。大村駅からトラックで寄宿舎に向かう。今日から一年間寄宿舎生活を送る。お国のため立派に職務をやり遂げようと誓った。
夕食は、玄米でお菜が少々。家でいっぱいお芋や団子を食べた日が恋しい。
十二畳間に六名、頭を向かい合わせて寝床に就く。私の髪が長いので、大村市の洋裁店に勤めていた方が切って組んでくださった。若くなったと皆が笑った。
昭和十九年一月一日
今日は、新年の佳き日である。昼食はかまぼこや鯛の魚、數の子その他いろいろで、おてがきの代わりに小みかんが五つ。今日は贈り物が来てうれしかった。オーバーと椿油と心配だったゴムテープが送ってきた。
昭和十九年二月六日
組長より縫工員に特急作業とのことですぐ支度して出発。砂を袋に入れ運んだ。二〇キロもあったので少々抱えるのに重かったけど一生懸命した。
飛行機の生産が一刻も早くなるよう精を出した。今日の半日は意義深かった。
昭和十九年三月十日
安全帯を縫う。安全帯は非常に大切なもので操縦者が使用する道具であるので、特に検査がやかましい。革ミシンをかけたのを始末したが結ばずに糸目を切って失敗した。迷惑の至りである。次からよく聞いて仕事しよう。
昭和十九年四月三日
修理工場の機体部に行き、完成した九六戦の仕上げの色塗りに行く。風防のところのガラス際を茶色で塗った。生まれて初めて飛行機に乗り、いよいよ完成した上に大きな番号を白色で塗った。
オー187である。
昭和十九年五月四日
今日は、定時間なのでお花もある故、急いで雨の中を帰舎する。お花はこでまりと昇藤を生けた。投入なのでとても綺麗かった。
投入は初めてで容易でなく、寮長先生より生けてもらった。
昭和十九年六月二日
帰りがけ兵隊の一人が電報を嘆願したので、願いを聞いてみたところ母に一目会いたいからと涙を流した。感無量なり。一度戦場に向かえば死別か武運は天にまかせるのみ。武夫の身のいかに尊くもまた哀れなるかな。夕闇に紛れて門前にさまよう姿を見つけを聞いてやることのできた喜びの涙であった。
昭和十九年七月四日
十時過ぎ、警戒警報発令され皆緊張す。これで実戦二度目なり。
男工は皆、防空壕の水を出しに行かれた。夜は灯火管制にて暗幕等厳重にせり。必需品も用意して休む。明日の命もわからぬこの身。然し一旦覚悟して征出たる挺身隊の身なれば致し方なし。
昭和十九年八月四日
警戒警報のサイレンなりたり。一同緊張し防空用具を付け身支度をなす。今日は十五夜なれば、空襲の備えを厳重にす。幸いに夜中には敵機来襲なく安眠できた。全く神仏の加護にほかならぬ。
前線の勇士に感謝す。
叔母は同年八月末に病により二十歳で亡くなった。ですが、叔母の女子挺身隊としての覚悟と誇りは、今もここに生きている。
posted by 松浦市社協会長 at 00:00|
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