2025年03月01日

卒業式に想う

 三月は卒業式。各学校で卒業式が行われる。私の小学校時代は五十年以上前であり、その記憶は薄らいでいるが、当時御厨小学校は体育館がなかったので三階の六年生の二教室をつないで講堂がつくられた。いすを並べ、入退場の練習、礼の仕方や卒業証書の受け取り方も練習した。卒業式では、君が代斉唱、校歌、仰げば尊しを歌い、蛍の光で送り出された。二クラス六十人程の卒業生と在校生は五年生だけ。それでも掛け合いも賑やかだった気がする。保護者はどこで見ておられたのだろう。
 私の子どもたちは、田代小学校を卒業した。平成十年当時は、どの学年も十名程の卒業生であった。体育館の舞台で卒業証書を授与された後、将来の夢を語ってから階段を下りた。みんな大きな声で将来の夢を語った。答辞を読む児童は答辞の練習、送辞を読む児童は送辞の練習、全員で掛け合いの練習は昔と変わらず、校歌のほかにも当時の卒業ソングを日々練習し、本番に備えた。
 卒業とは、特別なことではないかもしれない。その時が来たらみんな卒業するのである。でもその答辞や送辞を聞きながら嬉しさ、寂しさ、感謝の気持ちに涙する子どもたちがいた。親もまたしかりで子供たちの成長に感動した。毎日顔を合わせているのに、(いつの間にこんなに大きくなったのだろう!)とか(こんなにしっかりしているなんて!)と改めて我が子への想いを強め、ここまで育ててくれた先生方に感謝をした。それが謝恩会だった。かつては「仰げば尊し」が定番だったが、最近は歌われなくなったようだ。歌詞が難しいことや内容が今の時代にそぐわないとのことらしいが、個人的には心に残る歌である。かつて聞き覚えのある卒業ソングは、「旅立ちの日に」「翼をください」「ありがとう・さようなら」「今日の日はさようなら」など。平成にも令和にも素敵な卒業ソングがたくさんある。

 今年の卒業式では、どんな歌が聞けるのだろう。

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2025年02月01日

玉の輿(たまのこし)の日に思う

 車のエンジンをかけると、カーナビが話しかけてきた。「一月二十日、今日は玉の輿の日です。」と。これは気になりますよね。
 「あの人は玉の輿に乗ったね」とか言ったりしますが、玉の輿の訳は、貴人の乗る美しい立派な輿、女性が結婚などによって富貴の身分になることと記されています。その語源には、二人の女性の存在がありました。
 一人目はお玉さん。西陣の八百屋の娘で父親の死後、下級武士本庄家の養女となります。当時は士農工商の身分制度があり、商から士へ一気に上がります。その後、公家出身の尼僧(のちの三代将軍家光公の側室となるお万の方)の侍女となり大奥にあがります。成人後、お玉も家光公の側室となり、のちの五代将軍綱吉公を産みます。生母として従一位という当時の女性の最高位に上り詰めました。
 二人目は京都祇園の芸妓お雪さん。アメリカの大富豪、モルガン財閥の創始者の甥ジョージ・モルガン氏の妻となった人です。失恋旅行に来たジョージは、外国人向けの茶屋で働くお雪を見初め、四年の月日をかけ、四万円(現在なら約八億円相当とか!)を払って身請けした。妾でなく、本妻として1904年1月20日、横浜で結婚式を挙げたのです。これが、「玉の輿の日」と呼ばれる訳です。モルガンお雪は、近代史上最高の玉の輿、日本のシンデレラと呼ばれました。
 近年は「逆玉」という言葉もあるようですが、男女平等の世の中、お互いを高め合える相手に出会ったとき、その人とともに生きたいと思った時が最上の時なのではないでしょうか。でも、もし、お玉さんとお雪さんに出会うことができたなら、玉の輿の乗り心地、聞いてみたいものですね。

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2025年01月01日

冬の赤い実

新年 明けましておめでとうございます。
本年も「笑門来福」と社会福祉協議会をどうぞよろしくお願いいたします。

 木枯らしが吹き、赤みを添えていたいろは紅葉とヤマボウシの葉が一気に落葉し、庭全体が槇を中心とした濃い緑色となった。その中で色を添えているのが、赤い実のなるナンテン(南天)、マンリョウ(万両)、センリョウ(千両)などである。
 ナンテンは、縁起物としてお正月には欠かせない花木である。「難を転ずる」に通じることから大切にされ、多くの家でみられるようになった。ナンテンの花言葉は、「私の愛は増すばかり」というそうで、ナンテンは白い花を咲かせた後に、赤い実をつけるため、時の移りにつれて愛情が高まっていくように見えることから、幸せを呼び寄せる花木と言われている。
 ナンテン以外にも、お正月の飾りにセンリョウが使われる。葉の形が小判に似ていることから千両と名付けられた。赤い実がたくさんつくため、昔から縁起が良い木として親しまれている。しかし、千両の上を行くのが万両である。千両よりたくさん実がつく。千両は葉の上に実を付けるため、鳥に食べられやすく、万両は、葉の下に実を付けて垂れ下がり、千両よりも重みがあるといわれる。
 千両、万両の他にも、百両、十両というのもあるのをご存じか! 背が低く、実の付きが少ないからちょっと遠慮して百両、十両と言われるらしい。
 百両は、別名「唐橘(からたちばな)」十両は「藪柑子(やぶこうじ)」と呼ばれている。(ああ!と思った方もおられるか。)
 更に、自宅周辺を歩いてみると、幹に絡むサネカズラやフウトウカズラなどが実をつけていた。普段見ようともしない藪の中にも、可愛らしい姿が隠れている。

 今年の目標は、些細なことに目を向けたいと思います。
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2024年12月01日

年神様(としがみさま)

 早いもので、今年も終わろうとしています。月末には、しめ縄、しめ飾り、門松が立てられ、お正月を迎える準備で大忙しです。どうして、お正月には門松やしめ飾りをするのだろう。その理由、みなさん知ってますか?
 年神様ってご存じですか? 最近は神棚のない家もあるかもしれませんが、神棚の後ろの壁にお札を貼りますよね。向かって右側に年神様である大歳御祖神(オオトシミオヤノカミ)を祀ります。年神様は、新年の幸せをもたらすために、元旦に高い山から下りてこられます。高い山頂で見る初日の出をご来光といい、年神様が降りてこられるのをご降臨というようです。祖先の霊が年神となって子孫繁栄を見守ってくださるのです。年神様に、たくさんの幸せを授けてもらうために大掃除をします。昔はすす払いをしていました。迷わずわが家へ来るために門松を立て、鏡餅を飾ります。鏡餅が年神様のお席のようです。そしておせち料理でもてなすのです。(おせち料理は家族のためではなかったんだ!)お正月は、単に年が改まるだけでなく、全てのものが新しく始まる節目なのです。
 お札といえば、神棚の左側に、大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)、事代主大神(コトシロヌシノオオカミ)を祀ります。七福神の大黒様と恵比寿様です。このお二神は親子だそうです。農業・商業・漁業の守護神で、商売繁盛・家内安全・厄除け開運などのご利益があります。もう一つ、火を司る神様、火産霊大神(ホムスビノオオカミ)がおられます。台所に祀られ、かまどの頃には、「くどの神様」と呼んでいました。オール電化の家でも見守っていてください。
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2024年11月01日

「失対さん」に感謝

 今年の夏はとにかく暑かった。そしてまだ暑い。暑さと寒さが共存して、これまでの春夏秋冬が崩れていっている。毎朝出勤する際、それなりの道幅があるにもかかわらず、道脇の草が生い茂り、ガードレールがあったかどうか、路側帯の白線があったかどうかも認識できなくなっている。センターラインによらないと車に枝がぶつかりそうだし、カーブでは危うく対向車とぶつかりそうになる毎日である。安全運転を!
 そうした日々の中で「昔は、失対さんがきれいにしてくれていたな」とよく思い出す。「失対さん」とは、私が勝手に読んでいる言葉であり、失礼があったらお詫びします。かつて、道路の除草作業をしてくれる人たちがいました。私が出勤する時間には、もう現場に来られ、帰るときには見事に除草され、綺麗な片付けようでした。どこの事業者さんかと思いきや失業対策事業として雇われている方々だと教えてもらいました。しかし、いつ頃までだったろうか。失対さんを見かけなくなって久しい。ずっと昔のような気も。

 少し、時代を振りかえると(間違っていたらすみません。)失対さんの始まりは、炭鉱閉山による離職者の緊急就労対策事業のようでした。本市の炭鉱の始まりは明治の代からで、「松浦市 炭坑史」によると、寛延二年(1749年)から昭和四十四年(1969年)までの220年の記録が記載されていました。
 旧松浦市が誕生した昭和三十年。石炭産業は活況を呈し、昭和三十四年には人口四万四千八百人となった。しかし、一方で、時代は石炭から石油へ、昭和四十四年には十六あった全ての炭鉱が閉山した。閉山後は、街を離れる人も多く、多くの住民が職を失った。昭和三十四年には、国策による炭離救済緊急就労対策事業が始まった。この事業が「失対さん」だったのではないか。事業費の8割が国の補助であるこの事業は、当時、財政再建団体であった松浦市の支えとなったようである。苦しい時代だったのだろうか。炭鉱を中心に多くの人が生活をしてきた松浦市。石炭離職者対策は、平成十三年に廃止となっているようで、失対さんを見かけなくなったのはその頃だろうか。長い月日がたち、荒れ放題の道路を見るにつけ、あの頃の「失対さん」を思い出し、改めて感謝したいと思う日々です。

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